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Jazz Pianist
Takeshi Asai's Travel Journal
Official Site

Takeshi Asai of de Trois Cités Records

France & Switzerland 2013
July 3 - August 4, 2013

文と写真 浅井岳史

  1. 第1回 NYからパリへ
  2. 第2回 パリの散歩
  3. 第3回 セーヌ川から眺めるパリ
  4. 第4回 パリからイル・ド・フランスへ
  5. 第5回 ロワール川の城廻り(その1)
  6. 第6回 ロワール川の城廻り(その2)
  7. 第7回 フランスの演奏旅行とレコーディング日記(その1)
  8. 第8回 フランスの演奏旅行とレコーディング日記(その2)
  9. 第9回 フランスの演奏旅行とレコーディング日記(その3)
  10. 第10回 ブルボン王朝発祥の地を訪ねて
  11. 第11回 フランスからスイスのモントルーへ
  12. 第12回 モントルーの週末
  13. 第13回 スイスのモントルーからアルプスを超えて北イタリア経由で南仏のコートダジュールへ
  14. 第14回 南仏コートダジュール(その1)
  15. 第15回 南仏コートダジュール(その2)
  16. 第16回 桃源郷

第1回 NYからパリへ

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「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」松尾芭蕉の奥の細道である。私は旅が好きだ。日々新しいところへ行き、新しいものを見、新しい人と出会う。芭蕉が江戸での生活を捨てて旅を住処にした気持ちがわかる。私も思い出す限り毎年旅に出ている。今年は職業であるジャズピアニストの演奏旅行と夫婦のバカンス、そして趣味の歴史散策を兼ねた一石三鳥の旅で、フランスとスイスに出かけることにした。行程は、まずパリに入って一週間、ロワール渓谷の城巡り三日間、アングレームとボルドーの演奏旅行とレコーディングで10日、スイスのモントルー、イタリア経由で最後は南仏コートダジュールのバカンス一週間と全行程一ヶ月に及ぶ長期旅行を企画した。果たして無事に行って来れるのか。出かける前はいつも不安になるが、お隣の親切なおばさんに植物の水やりをお願いして追われるようにNYを出発した。

ヨーロッパへのフライトはいつも夜出発で早朝に着く。今回もほとんど寝られないままアメリカ独立記念日に早朝のパリに到着。徹夜明けで眠いのに外国に到着するのはちょっとつらいが、タクシーの乗ってしまえという誘惑に打ち勝ってがんばってシャルルドゴール空港から電車でパリへ。電車に乗るときに行き先を訪ねたモロッコ人のおばさんと車中で仲良くなった。私のフランス語よりも上手な英語で親切にも地下鉄に乗るところまで案内してくれた。あばさんに感謝。パリにはたくさんのアフリカ人がいる。最近では彼らが人権の平等を求めて暴動が起きているくらいだ。 フランス革命を世界初の歴史的快挙だと自負している(本当にそうだ)フランスだが、公民権運動ではアメリカの後手に回っていると思う。アメリカで起こった歴史をこの国も一から経験していくのであろうか。この問題は植民地の代償と呼ばれていて、今後もフランスに陰を落として行くことだろう。モロッコのおばさんからも貴重な話をたくさん聞くことができた。

6泊7日のパリ滞在というので、ホテルではなくキッチン付きのアパートを借りた。フランスは食べ物が美味しいので、レストランに行かずとも安スーパーで買った素材を自分で調理すれば、かなり美味でかつ滞在費を安くあげることができる。一週間のパリのアパート暮らしだ。こいつはかなり楽しい。ただしパリは物価がべらぼうに高いので「安い」とは決して言えないが。

パリは個人的には4回目だが、 始めて来たときの感動を今も忘れていない。パリ留学を経験した遠藤周作は、初めてパリの街を見て、東京には無いその美しさと壮大さに驚愕したという。私も初めてセーヌ川のボートからみた白い荘厳な建物が続く様をみて、同じ思いをした。NYも美しい。ロンドンも美しい。東京も大好きで美しいと思う。でもパリは格段に美しい。世界の都と呼ばれる所以がここにある。この美的感覚は一体どこから来るのだろう。

さて、自他ともに認める「歴史オタク」の私が選んだ最初の目的地は、パレ・ロワイヤル(Palais Royal)である。ルーブル美術館からブランド物の店が並ぶティボリ(Tivori)通りをはさんだ建物と庭園がそれだ。建物内には残念ながら入れないが、その外観と庭から革命前夜を想像することは十分可能だ。18世紀、パリにはおびただしい数の娼婦がいたそうで、警察も入れないこのパレロワイヤルでは、乱れた風紀を餌に、時代に不満を持つもの、権力を求める振興市民や下級貴族の野心家、自由平等主義者たちを抱える革命思想の温床としての役割を果たしたのだ。そしてそれを煽ったのはここの所有者、ヒィリップ・エガリテことオルレアン公で、国王の従兄弟である。彼の投じた一票で国王の処刑が決まったという衝撃の事実はフランス革命を理解するに非常に重要である。そもそもこのオルレアン家、アンリ4世の三男でルイ13世の弟であるガストンから始まり、虎視眈々と王権を狙っていたブルボンの傍系で、ヒィリップ・エガリテ自身はめまぐるしく変わる革命政権の中でギロチンにかけられたが、ボストンに亡命して生きながらえた息子が王政復古後フランスに戻り、7月革命でルイ・ヒィリップ1世として即位した。ブルボン本家を倒したのはブルボン傍系なのである。オルレアン家代々150年来の夢を叶えたのだ。

そこからチュイルリ公園(ここにはルイ16世とマリーアントワネットの家族がベルサイユから民衆によってつれてこられて、逃亡を企てるまで住まわされた宮殿があったはずだ。)を抜けるとそこには、エジプトのオベリスクが建つコンコルド広場、革命前にルイ15世広場と呼ばれていたが、革命時にギロチンが備えられたのはここだ。

しばし、革命から離れてシャンゼリゼ通り(Champs-Élysées)を歩いた。ベルエポックのパリだ。それぞれに装いを競った店が立ち並ぶ。シャンソン「オ・シャンゼリゼ(Aux Champs-Élysées)」が聞こえてきそうだ。そういえばバークリー音楽院の学生時代、夏休みにここを歩いていたら帰省中のフランス人のピアノの先生にばったり出会ったことがある。東京の表参道はここをモデルにしたそうだ。スターバックスもあった。英語は通じるのにアメリカのギフト券は使えなかった。

並木の間から凱旋門が見える。まさに絵に描いた「パリ」の風景だ。白い大理石が太陽に輝いて本当に美しい。冬に来たときに登って凛とした空気の中で見た町並みは素晴らしかった。

一気にRERという電車でオルセー美術館(Musee d’Orsay)へ。ジャポニズムとモネ、ゴーギャン、ゴッホ などの印象派を中心に絵を堪能。やはり本物を間近で観るのは迫力がある。感動した。かつて駅舎だった建物は今も面影を随所で見る事ができる。見終わってからセーヌ川の川岸で疲れた足を休めた。風が本当に心地よい。オルセーの建物の外観はいつ見ても壮観である。

空腹に堪え兼ねて自炊の掟を早速破ることにした。ポンヌフ近くにあるレストラン街へ。焼きそばの誘惑に打ち勝ってフランス料理店に入る。やはり美味い。ステーキなどどこで食べても美味しいようなものでも、私はフランスのステーキが一番好きだ。なんといってもソースが美味い。家内はカナール、こいつも美味い。アメリカでは全く食べない鴨の肉だが、フランスでは非常に良く出てくる。極楽である。

(続く)

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第2回 パリの散歩

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パリ内の移動は地下鉄が便利だ。三日有効なパスを買ったので使わない手は無い。

エッフェル塔(Tour de Eiffel) に登ってみた。なんとパリは白夜のように夜10時まで明るい。どういう訳か頂上までは乗せてくれないのだが、それでも空からの街を堪能した。やはりパリはユトリロが描いたそのままの白い漆喰の街である。塔からおりてくると、もう午後10時を回っていた。ようやく暗くなりかけた芝生広場で大勢の人が夕涼みをしている。風が本当に心地よい。水を買おうとしたら一本4ユーロ。買うのは辞めた。 高過ぎだ。

別の日、サンルイ島(Ile de Saint-Louis)とシテ島(Ile de la Cite)に夕方の散歩に出かけた。私はサン・ルイ(Saint Louis ことルイ9世)のことをわりとよく読んで知っている。彼が指揮をとった二回の十字軍遠征のこと、王妃のこと、アリエノール・ダキテーヌの孫娘でホワイトクイーンと呼ばれた母親のこと、彼の子供から9代後にブルボン王朝のアンリ4世が出たこと、そして彼がここに建てた教会のこと。彼が最初の十字軍に出発する為に造ったプロバンスの四角い砦エーグ・モルテ(Aigues-Mortes)に行ったときには本当に感動した。ちなみにアメリカのセント・ルイスはサン・ルイの英語読みで、彼を記念して造られた街である。今のサンルイ島は瀟灑なアパルトマンがならぶ静かな住宅街だ。近づきがたい場所かと思っていたが、感じの良いレストランとカフェとアイスクリーム屋がならぶ散歩にはもってこいの良い街であった。

ノートルダムには相変わらず長蛇の列があった。ここの歴史は本当に長い。10世紀から600年をかけて造られたそうである。600年。気が遠くなるくらい気の長い話だ。

別の日、新しい観光名所に挑戦した。パリ市内の墓地、ペール・ラシェーズ(Père Lachaise)を訪れた。さすがカトリックの国だからか、まるで映画を見るような不思議な空間である。ここはセレブの墓で有名だ。音楽家の私はまずショパンの墓を探してみた。広い園内をずいぶん歩いてやっと見つけた白く意外と小さい墓には今も花が供えられ人々に取り囲まれていた。ポーランドからやって来て、祖国の革命を音楽で讃え、ここで死んだのだ。ジム・モリソン(Jim Morrison)の墓もあり若い女性がお参りしていた。死んでもなお女性に人気があるようだ。

また地下鉄に乗って今度は、タンプラー( Templer)の広場へ。かつてここには陰惨な中世の塔が建ち、 中世には、タンプル教団という聖地巡礼を希望する者をガイドするというビジネスモデルで莫大な資産を集めた教団があった。その建物は革命時には牢獄ともなりルイ16世はここからギロチンのあるコンコルド広場へと馬車で運ばれて行った。今は何も残っていない芝生の広場でオフィスの人たちがランチをする憩いの公園であった。我々もサンドイッチでランチをした。そこから古い町並みを歩いて、ルイ13世時代のプラス・デ・ヴォージュ(Place de Vosegs)、そしてバスチーユ(prise de la Bastille)に行く。1789年7月14日、パリの民衆は武器を奪い、ここにあった監獄を襲った。政治犯を収容したこの監獄は王権の象徴とされ、そこを襲撃したということは堂々とした王権への反抗である。知らせを聞いたルイ16世が「反乱か」と尋ねたところ側近が「いえ、革命です」と答えたというのは有名な話で映画でもそういうシーンが時々出てくる。それ以来この日がフランスの革命記念日になっている。が、ある説によると当時収容されていたのは数人の囚人だけで、ほとんどがコソドロだったそうだ。一連の革命の中で初めての流血事件となった場所だが、もはや何も残っていない。当時の監獄の石が通りにわずか残っているそうだが、見つけられなかった。広場の隣に大きな新しいオペラ劇場が建っていた。

日差しが強いのでしばしホテルに戻って昼寝。夕刻からサンジェルマン・デ・プレ(Saint-Germain- des-Pres)のあたりに出かけてみた。戦後このあたりは「パリ左岸」と呼ばれ、サルトル、ボーヴォワール、ヘミングウェイ、ピカソなどの作家、芸術家、文化人が集って独自の文化を形成したところである。ウッディアレンの映画「Midnight in Paris」に、主人公がタイムスリップしてまさにその時代に迷い込むところが描かれている。

今は国会議事堂として使われているリュクサンブルグ公園(Jardin du Luxembourg)と宮殿を散歩し、ソルボンヌ(Sorbonne)大学のあるカルチエ・ラタン(Quartier latin)へ。 ソルボンヌはいかにも古めかしい建物があった。12世紀から続く名門である。 生まれ変わったら是非ここで勉強したいものである(笑)。

(続く)

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第3回 セーヌ川から眺めるパリ

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昨日で地下鉄の三日間パスがきれたので、この日はセーヌ川をボートで移動する事にした。考えてみれば、中世には川が主の交通手段だったわけで、ほとんどの城や街は川や海に面してできている。セーヌ川を行き来するボートで一日移動するのは、いわば歴史的にも検証された正しいパリの移動の仕方なのである。

まずはポンヌフである。Pont Neuf とは「新しい橋」という意味だが、面白いことに現在のパリでは最も古い橋である。ブルボン王朝最初の王、アンリ4世によって造られた歴史的な遺産で、今も橋の真ん中の島に彼の像がある。ルイ9世から下ること10代目、バロワ王朝の断絶とともにパリに入城しフランス王となった。彼の息子ルイ13世がリシュリュー総裁とともにフランス絶対王政の基礎を作り、その息子が「朕は国家なり」で知られるベルサイユ宮殿を造った太陽王ルイ14世である。アンリ4世は今でもフランスで最も愛され続けている王だそうだ。君臨直後にナントの勅令を出し、それまで宗教戦争で多大な人々が犠牲になっていたフランスに平和をもたらしたからだろう。歩いてシテ島の先端まで行ってみた。川の水がまるで翡翠のようにきれいな緑であるのはなぜだろう。

さて、私は三回目だが家内が初めてなので、コンシェルジュリ(Conciergerie)に行くことにした。革命時の有名な牢獄で、ギロチンにかけられる囚人はまずこのコンシェルジュリに入れられた。ちょっとまで黒ずんだ丸い中世の塔がセーヌ沿いに二本立っているいかにも牢獄という建物であったが、いつの間にか真っ白に掃除されている。マリーアントワネットはここのコートヤードで朝髪を切られ、手を縛られたまま荷馬車でコンコルド広場まで運ばれた。彼女の独房は今は教会に作り替えられ、悲恋の王妃に運命を祀ってある。壁にはギロチンの犠牲者の名簿があり、そこにはルイ16世、マリーアントワネット、フィリップ・エガリテなどの名前を見つけることができた。その数約2,900人。まさに恐怖政治である。その恐怖政治は、指導者ロベス・ピエール自身がギロチンにかけられることで終わった。ロベス・ピエールの遺品もかなり展示されていた。

コンシェルジュリのもう一つの見方は、この建物自体がカペー王朝の宮廷であったことだ。私のヒロイン、アリエノール・ダキテーヌ(Aliénor d'Aquitaine)が太陽がさんさんとそそぎ、吟遊詩人が高らかに愛を歌う南フランスの宮廷からルイ7世の王妃としてパリに嫁いで来て、その暗く寒く修道院のような宮廷と修行僧のような夫に大いに失望したというが、この建物を見ているとそれが容易に納得できる。

ランチはセーヌ川近くのカフェで。NYでは想像もできないことだが、この街にはクーラーが無い。暑苦しく狭い店内には警官が三人、たっぷりとコーヒーまで飲んでランチを楽しんでいた。

さて、セーヌ川を行き来して何度でも乗り降りができるバトバスというボートに乗る。街は暑いがセーヌの水上はひんやりしていて気持ちよい。景色は相変わらず壮大だ。やはりパリの顔は川沿いにあるのではないかと思う。どういう訳かたくさんの戦闘機が川の上を飛んで行き、航空ショーか戦争でも起きたのかと思うくらいだった。最初のストップでおりて、植物園とローマ帝国の遺跡、ルーテシアを堪能。ルーテシア、そういう名前のフランス人の女性に会ったことがあるが、ローマ時代のパリの名前だそうだ。

再びボートに乗りしばしパリを巡る。水上から見るコンシェルジュリ、チュイルリ、エッフェル塔は見事だ。最後にロシアのロマノフ王朝、Alexander3世橋と、対になったグランパレスとプチパレスを歩き、再びシャンゼリゼ通りに戻り地下鉄でホテルへ。これでパリの観光は終了。物価が高いのが難だが、やはりパリは良い。ファッション好きも、建築好きも、歴史好きも、音楽好きも、買い物好きもすべてを満足させられるまさに世界の都であることは間違いない。私は何よりもユトリロが愛してこだわったこの白い街の色が好きだ。

パリ最後の朝はブリオッシュを食べた。ブリオッシュとは蒸しパンの一種で、型から頭が飛び出てキノコのような形がかわいい。日本で食べたミルクパンのような物だ。「パンが無ければケーキを食べたらいい」というマリーアントワネットの有名な言葉は、どうやらケーキではなくて、このブリオッシュだったそうだ。

さて、この日は難関が待っている。重いスーツケースを持って地下鉄を乗り継いで、Avis レンタカーに行かねばならない。なるべく荷物をまとめて、重労働を覚悟をしてホテルを出た。以前ネットでフランス人の無愛想さ、特にパリジャンの外国人への不親切さが当地でも問題になり、パリ市が市民に改善を呼びかけたという記事を読んだことがある。だが、どうだろう。地下鉄の階段を重いスーツケースを担いで登っていると複数の人が助けてくれるではないか。道を探していれば声をかけてくれる。キャンペーンがそんなに早く功を奏したのだろうか。我々があまりにも哀れだったのだろうか。いずれにしても親切なパリジャンのおかげでめでたく Avis の支店に着きレンタカーをピックアップする。ルノーのクリオだった。これで荷物運びからも卒業だ。この小さな車で、パリ郊外、ロワール渓谷城巡り、アングレームとボルドーの音楽ツアー、スイスのモントルー、北イタリア、そして南仏コートダジュールをまわる壮大な車旅行に出発する。

(続く)

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第4回 パリからイル・ド・フランスへ

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ヨーロッパと車について一つ。パリは素晴らしい。がフランスもイタリアもヨーロッパの本当の美しさは車でしかアクセスできないと思っている。丘の上に建つ古城、長閑な田舎街、美しい海岸線、ヤギの群れる牧草地、バスや電車でのアクセスはほぼ無理だと思ってよい。従って、私たちはいつもレンタカーを借りる。そして車が入れるかどうかぎりぎりの中世の狭い石畳の道のドライブを楽しむのである。

ヨーロッパではすべてマニュアルトランスミッションなので、オートマチックしか運転できないと困る。あと、晴天時の高速道路の最高速度は130キロであるが、だいたいみんな150キロで巡航しているので、かなりスピードに慣れないといけない。といってもそんものすぐにスピード狂になってしまってNYがものたりなくなる。私などは、フランスで二回、イタリアで二回スピード違反で捕まった強者である。ただ、最初は「旅の恥はかき捨て」と思っていたが、半年ほど経つと、下手な英語で書かれたスピード違反の書面が送られて来たのであまり下手な事はできない。

それと大切なことであるが、ここはほとんどの車がディーゼルエンジンで給油の際には気をつけなければならない。以前イタリアでガソリンを間違えて、ひどい目にあった。徐々に失速していくエンジンと格闘しながらなんとか空港まで向かい、最後の100メートルは手で押したという武勇伝は話のネタとしては最高であるが、もうこりごりである。

さて、車を手に入れパリ郊外へ。といいつつ相変わらずの歴史オタクぶりである。最初の目的は、ボー・ル・ビコント城(Chateau de Vaux le Vicomte)である。ダイアン・レイン(Diane Lane)のデビュー作品、17歳の彼女がイギリスの大俳優オリビエ・ローレンスに見いだされて出た最初の映画「Little Romance」にこの城が登場する。 その映画の中でもこの城のツアーガイドの説明が聞けるが、若き太陽王ルイ14世の家臣で当時財務大臣であったニコラス・フーケが、巨万の富を築き金に飽かして造ったのがこの城だ。天才ノートルがデザインした庭園、そこに映えるドーム型の屋根、ベルサイユ宮殿の前にこれが造られたことには感嘆する。日本では江戸時代である。建物内部は、イタリアのフィレンツェで見た装飾がそのまま使われている。ルイ13世の時代から当時の建築の最先端はイタリアであり、ここにもふんだんにイタリアのルネッサンス様式が取り入れられていることがわかる。しかしこの城を見たフーケの「上司」ルイ14世は嫉妬し、彼を投獄した上、城を没収してしまった。(似たような話はイングランドのヘンリー8世とウースリー大司教にもある。ハンプトン・コートである。)そして、若き太陽王はそれよりも大きな宮殿の建築を命じたのである。そう、ベルサイユ宮殿である。全く同じ建築家を使ったことで王の嫉妬深さが伺い知れる。庭の運河など、素人の私が見てもわかるくらい、いたるところでベルサイユ宮殿の原型を見ることができる。私がはじめにこの城を知ったのは、高校生の時に買ったフランスの写真集である。以来いつかこの城をこの目でみたいと思っていた30年来の夢がかなったのである。城を見ながら、芝生でPique-niqueをした。「夢は必ず叶う。叶わないのは想い方が足らないからだ。」映画「髪結いの亭主」からの私の座右の銘である。

さて、次は郊外を走ること一時間、ランブイエ(Lambuillet)の宮殿を目指した。この城はさほど有名ではないが、フランスの歴史を読んでいるとかなり頻繁に出てくる。王政復古後シャルル10世が七月革命で王権をルイ・フィリップ1世に取られた時も、ここに向かう時だった。夏だというのにあまり観光客がいなくて地元の人の憩いの場所になっているようだ。だが、小さいながらツタの絡まる城館とその庭園は立派で、それを取り囲む街も、王族の別荘にふさわしい品がある。 城の前には三方に広がる大きな運河があり船でしか行けない島が三つもある。それぞれ豪奢な門が造られてあり、誰がみてもここのメインイベントは船遊びであることがわかる。しばしアンシアンレジームに船で遊ぶ貴族たちを想像してみた。どういう訳か、私は時空を超えてそこに行きたくて仕方がない(笑)。

自転車遊びをしている小さな少女と挨拶する。街が良い。デリで夕飯とデザートにプリンを買う。私がフランスで見たどこよりも充実したデリで、見たこともないような美味しそうな品が店内には所狭しと並んでいた。フランス語しか話さないおばさんがとても優しかった。フランスは本当に豊な食文化を育んで来た国だ。これはやはりアンシアンレジームで育まれた貴族の食文化からであろう。今でも革命前の王侯貴族のレシピーは街のシェフに伝えられているようで、フランスでそういうテレビを見たことがある。

パリ郊外、かつての王の直轄地をイル・ド・フランス(Île-de-France)という。イル・ド・フランスにはたくさんの見所がある。王族の歴代の廟となっているサンドニ教会(Basilique de Saint-Denis)、ナポレオンがセントヘレナ島に流される前に別れを告げた馬蹄形階段が有名なフランソワ一世のフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)、ナポレオン一世の皇帝妃の居城マルメゾン城(Château de Malmaison)等々。見尽くすことは不可能なくらいリストが続く。そもそもフランスだけで一万以上の城があるという。徳川幕府が許可した城の総数はたかが三百に足りないことを考えるとこれがどれだけ凄いことか想像できよう。仕方ない。また来よう(笑)。「足るを知る」ことも重要である。

(続く)

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第5回 ロワール川の城廻り(その1)

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イル・ド・フランスに別れを告げ、一路シノン(Chinon)へ。時速160キロで二時間半ひたすらぶっ飛ばした。こういうヨーロッパの高速長距離ドライブ、NYでは絶対に機会が無い。今度は是非BMW 328xiで走りたいものだ。それにしてもフランスの田舎は美しい。牧草地帯や畑がつづき、かなりの頻度で丘の上に城がある。以前イタリアで、高速を走っていて見つけた名も無い城に行ってみたら、個人が所有する城とワイナリーで愛想良くもてなしてもらった記憶がよみがえる。が、残念ながら今回はその余裕はない。ひたすら高速で車を走らせる。

夕刻になんとかシノンに着いた。チェックインにぎりぎり間に合う。このホテル、去年夏のリピートである。最初は名前で選んだのだが(その名もプランタジュネット)、気に入ったので、今年は一つギグを断ってまでロワールに来た。音楽と城巡りの両立は時として難しい(笑)。去年部屋に遊びに来てくれた猫が今年もいた。中庭でランブイエで買って来た晩ご飯を食べる。風が心地よい。プランタジュネットとは歴史好きにはたまらないフランスのノルマンから出て イングランドを納めた王朝の名前である。1066年の征服王ウイリアム以降バラ戦争のランカスター家まで数百年の間イングランドの王はフランス人であった。それが百年戦争の主な原因なのである。どういう訳かこのホテルの女主人はイギリス人のようだ。だからこの名前をつけたのか。

シノンは中世そのままの町並みを残し、丘の上に廃墟となった城を持つ古く美しい街である。最初に来たときはその城跡とその中世の街並にため息がでたのを今も覚えている。百年戦争の中、イングランド王ヘンリー6世がフランス王としてパリで即位したため、王の装いを捨て群衆にまみれて隠れていたシャルル7世を17歳の農家の少女が見つけ出し、その少女が軍を率いて次々と取り囲むイングランド軍を追い払い、シャルル7世をフランス国王として即位させた。ジャンヌダーク(Jeanne d'Arc)のことである。そして彼女がシャルルを見つけたその城こそこのシノン城なのである。

シノンを取り囲むこのロワール渓谷全域は、 私のような城フェチにはため息が止まらないほどの城が並ぶユネスコの世界遺産にも指定された地域である。300キロは有にあるだろうこの渓谷に建つ大小様々な城の数は、めぼしい物だけでも百近くあり、すべてを数えたら数百をくだらないだろう。このロワールに来て城を巡るのは今回で4回目だが、まだまだ見終わっていない。私のライフロングの目標の一つである。

だが、今回のテーマは(昨年に引き続き)私のヒロイン、アリエノール・ダキテーヌである。まず彼女とプランタジュネットのお墓参りをかねて、フォントブロー修道院(abbaye de Fontevraud)からスタートした。10世紀にまでさかのぼる歴史をもつこの修道院は、もともと王族の寄進によってできたもので、代々王族の女性が身を寄せた修道院であった。ロンドンのウェストミンスター宮殿でイングランド王として即位した後も、プランタジュネット王朝の故郷はこの地であり、ここに墓がある。墓はフランス革命時に荒らされ修復不可能になっているが、当時墓の上に飾る石のレフジー(人形)は残っている。肖像が全く残っていない12世紀に生きたアリエノール・ダキテーヌを思い偲ぶ唯一の方法である。

「ナンネル・モーツァルト 哀しみの旅路」(NANNERL, LA SOEUR DE MOZART)という映画で、まだ子供のモーツアルトとその一家が、ベルサイユへの参殿途中で嵐に遭い、修道院に身を寄せる。そしてその修道院で生活していたルイ15世の三人の娘と仲良くなるという下りがあるが、その修道院がここである。もっともこれだけ長いこと続いた修道院であるが、今はその機能を失いカルチャーセンターなっているのには少々がっかりした。昨年来た際にはルイ15世の娘たちの部屋の看板があったような気がしたが、今年は改装中であった。

城巡りは移動が大変なので、一日三件行ければ上出来である。二件目は、ロリー城(Chateau de la Lorie) 。がんばって走ったあげく門が三時まで閉まっていて入れない。待つほどの価値もないと勝手に判断してパス。途中、ル・リオン・ダンジェ(Le Lion d’anger) という小さな街でランチ。最後の城、 プレシス・ブーレ城(Château du Plessis-Bourré)がGPSで見つからないので、ツーリストインフォメーションに駆け込む。初めてフランス語を褒められた。

最後はプレシス・ブーレ城。王家の城か配下の貴族の城か、規模と豪華さで一目瞭然である。ロワール4回目ともなる私が行くところは大概小さな城だ。が、実はそれが面白い。そもそもこの城、最近見たフランス映画「La princesse de Montpensier」に使われただけあって、水を満々とたたえた堀に囲まれた中世の城を絵に描いたような美しさがある。面白い事に、(ここでは珍しくないことだが)子孫の家族がまだ住んでいて、ところどころに家族の写真が置いてある。また、この規模の城では通常、フランス人のツアーガイド同伴でしか入城できない。今回も例外ではなく、数名のフランス人の観光客に混じり中へ入る。英語は基本的になし。でも城を堪能するには十分だ。むしろそれで良い。フランスの城なんだからフランス人が熱く語ってくれるところを一生懸命理解しようとするプロセスが楽しいのだ(笑)。ここにもフランス革命の爪痕が残っていた。紋章が刀で削られていた。ただこの水を満々とたたえた堀、敵の襲来にそなえるというよりも、泥棒よけだという。やさしいガイドの青年が堀に架かった跳ね橋の上げ下げを見せてくれた。子供にはかなり面白いだろう。私も心が踊った。

アリエノール・ダキテーヌのたたりなのか、その夜、100.4度の熱がでた。死ぬのではないかと思ったので朦朧とした意識の中で神に祈った。

(続く)

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第6回 ロワール川の城廻り(その2)

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祈りが通じたのか、奇跡的に朝には熱が下がっていた。いったい何だったのだろう。そのせいか、この日はどこかミラクルな一日になった。

まずはカンデ・サン・マルタン(Candes-Saint-Martin)、 12世紀の教会がある有名でもなんでもない街だ。さっそく川の近くに静かで古い集落を見つけた。教会の近くに車を停め、まずは丘の上の展望へ。そう、びっくりしたのは、この地方に原子力発電所がいくつかあることだ。パノラマの絵地図にも、12世紀の城と並んで、 1957年 の原子力発電所となんの悪気も無く堂々と明記してある。確かにフランスは世界で最も原子力発電に頼っている国なのである。

教会の中に入ってみた。古い。いきなり若い男性が近寄ってきて、教会の案内を買って出てくれた。あまりにも話が良すぎるので半信半疑だったが、無料で案内してくれるというのでお願いした。彼が流暢な英語で説明してくれるところによるとマーチンというかつてのローマの兵士がキリスト教徒になり布教でこの地を訪れてこの教会の場所で命が果てたらしい。彼が頼れた場所に教会を建てて彼の偉業を奉った。397年のことだそうだ。ローマ帝国皇帝コンスタンティン(Constantine)がキリスト経をローマの正教に決めた頃だ。以来この教会が セントマーチンの本山となり世界中に広がって行ったそうだ。昔ロンドンのセントマーチン教会にコンサートを聴きに行ったことがあるが、それも彼によるとこの教会の一派だそうだ。

その青年、ソルボンヌ大学で歴史を学んで、今は宣教師になる道を選んでセミナリオで勉強している宣教師の卵だそうだ。キリストの死からローマの正教になるまでの400年間、キリスト教はアンダーグラウンドの宗教だったのである。なぜそこまで時間がかかったのかその青年に聞いてみると、やはりローマの皇帝は一神教の神が皇帝よりも高い存在であることに自分の権威を恐れたからだと言う。それは豊臣秀吉がキリスト教を禁じた理由と同じである。さすがソルボンヌで歴史を学んだ宣教師の卵、その話も知っていた。短い時間であったが、彼との出会いはまるで突風が吹いたのごとく私に何かを残してくれた。

ふとみると、そこにシアターのチラシがある。アリエノール・ダキテーヌの劇だ。夜8時から近くの城で上演される。これは行くしか無い。最初の街でこんな劇的な出会いがあるとは。感動の余韻にひたりにそのままロワール川岸に行きしばらくぼっとしてみた。

次は隣町の城、モンソロー城(Château de Montsoreau)。ここは「三銃士」の作者、アレクサンドル・デゥマ(Alexandre Dumas)のミステリー小説「Dame de Montesoresu」の舞台になった城らしい。が実際にはその殺人事件、対岸の城で起きたことらしく、しかもその城はもう無い。景色は良いが城のプレゼンテーションは今ひとつで、何やら関係の無いアート作品を並べて入場料だけは一人前に取られた。

次はワインで有名で非常にフォトジェニックなソーミュール城(Château de Saumur)。城は外から眺めるだけにして街のベーカリーでランチとお茶をする。ランチ後ロワール川にかかる橋を中程まで歩き望遠レンズで城を写てみた。夏のロワールは暑いが吹いてくる風が本当に気持ちよい。

午後の最後はブレゼ城(Château de Brézé)。表向きは、ワイナリーに囲まれた典型的なロワールのシャトーだが、近づいてみるとびっくりするほど深い空堀がある。さらに驚いたのは、「城の下の城」と豪語するだけあって、地下に相当な廊下や部屋がのびている。こいつはぶったまげた。あるロワールの城は暖炉から一マイルの秘密の地下道が造ってあるそうだが、こいつは一マイルの比では無い。地上の城は典型的な白いフランスの中世/ルネッサンスの城で本当に美しい。肖像画の部屋には、珍しくアンリ5世のものがあった。シャルル10世の孫である彼は、立憲君主制(三色旗)を受け入れるなら王政復古のチャンスが与えられたそうだが、あくまでも古い王政(白い旗)にこだわり王政復古の道を拒否したそうだ。もし彼が復古していれば、フランスは今頃イギリスと同じ立憲君主国になりロイヤルファミリーがセレブとして扱われていたかもしれない。

さて、今夜はアリエノールの劇を見る。モンレウイユ・べレ(montreuil-bellay)という城である。先に城に行って城下町で食事をしながら開演の8時を待つことにした。フランスの田舎は夏でも本当に静で私は大好きだ。ここもそうだ。品の良い城下町に数件の品の良いレストランがあり、品の良いご夫人が注文を取ってくれる。ここの売りはクレープだ。

この城、プランタジュネットの先祖であり、彼らがまだアンジュウ地方の領主だった時代を生きた野蛮人領主、フォーク・ネーラ(Fulk Nerra)によって築かれた城だそうだ。そんな彼でも祖先がイングランドの王になるなんて想像もできなかっただろう。まさに絵に描いたような塔が立ち並ぶ中世の城であった。劇の背景としてはこれ以上のものは無い。

ブロードウェイと比較するとなんとも貧弱な劇であるが、一生懸命地元の俳優たちが演じるアリエノール・ダキテーヌの劇は私には面白かった。ただ野外で非常に寒いのとフランス語ばかりなことで奥さんは大変だったかも知れない。劇の後レセプションがあってワインが出た。ここにはフランス人しかいない。帰路についたが、車のシガレットライターが壊れてGPS が使えない。真っ暗の中を手作業で地図を見てホテルに帰った。フランスで以前も同じことが起こった。フランス車は電気系統が弱いのか。こいつは困った。明日に課題を残して床に就く。

(続く)

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第7回 フランスの演奏旅行とレコーディング日記(その1)

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Saturday, 7/13

ロワール川の城廻りも終えて、今回の旅の目玉、アングレームでの演奏旅行に出発。だが、昨夜起きたレンタカーのシガレットライターの故障 で、車を交換する必要がある。仕方なくAvisのあるツール(Tour)の街へ。がんばってGPSに頼らず自力で見つけたAvisのオフィスだが、英語がまったく通じない。フランス語でがんばったが結局この街には代車がなく、ポワチエ(Poitier)のAvisまで行かなくてはならないそうだ。仕方ない。気を取り直してポワチエに向かう。でも捨てた物ではないかもしれない。アリエノール・ダキテーヌが息を引き取ったフォントブロー修道院でスタートしたロワールの旅であったが、ポワチエには彼女の生まれ育った城がある。これは彼女の招きなのだろう。ポワチエで新しい車を手に入れ、早速彼女の宮殿モーベルジャン(Tour Maubergeon)に行く。12世紀からここの建つこの小さな宮殿は、まわりが繁華街となってカフェやデパートに取り囲まれながら今もここにある。 しかしこの忘れられてしまった宮殿、音楽の歴史上非常に重要な役割を果たしている。 アリエノールの祖父にあたる William IX, Duke of Aquitaine(Guillaume de Poitiers)は世界初の吟遊詩人として貴族としてではなく、音楽家として名を残した人物で、この宮廷は後にヨーロッパに多大な影響を与えた南仏の宮廷音楽のいわば大本山だったのだ。不思議なことだ。地元の人はこの建物が何なのか分かってないんじゃないかと思うくらい気を留めるのは私くらいなものであった。最後に音楽の聖地を訪ねることができたのは、フランスでの音楽活動に幸運をもたらしてくれるに違いない。アリエノールの贈り物に感謝。

すっかり夢中になってしまった歴史探究、特にアリエノール・ダキテーヌの奇跡を訪ねたパリとロワールの旅を終えて、演奏旅行とレコーディングが始まるアングレームへ。なんだかバケーションから帰って仕事に戻るような重い気分になってきた。音楽は仕事だから仕方ない。すでにボルドー近辺のクラブやコンサートホールでは宣伝が始まっている。レコーディング・スタジオも予約済み。あすから三日間で音楽家モードに戻らなくては。

二時間強のドライブでアングレーム(Angoulême)に着く。周りの森や畑をかなり高いところから見下ろせる城壁に囲まれたこの街は日本でもアメリカでもあまり馴染みの無い街であるが、歴史的には重要な街で、プランタジュネット(また出た)の失地王ジョンの王妃は絶世の美女、イザベラ・ダングレーム(Isabelle d'Angoulême)であり、フランソワ一世が始めたバロワ王朝はバロワ・アングレーム家と呼ばれる。中世を終わりを告げるルネッサンスの王、フランソワはここの隣の街、コニャック(酒で有名)で生まれた。彼の命で発見されたアメリカの地は最初ニューアングレームと呼ばれ、後に改名されてニューヨークとなったことはアメリカでは知られていないが、ここではみんな知っていた。ニューヨークのミュージシャンがアングレームで演奏する。あながち偶然とはいえないのではないか、そんな気がする。

この街、最近では毎年一月にアニメフェスティバルが開催され、通り名がすべて吹き出しで表示されたり、街こぞってアニメを売りにしているそうだ。到着した7月13日は、フランスの革命記念日の前夜で、幸運にも岡の上から花火を見ることができた。風がすがすがしいパーフェクトな夜だった。

Sunday, 7/14

アングレーム初日。今日からバンドメイト、フランス人のマキシムの家に居候する。フランス11日目。 移動が多かったので家に居られるというのは本当にありがたい。 革命記念日の日曜日だが、教会の鐘が鳴る以外は本当に静だ。時間をかけて朝食をいただき、マキシムと朝から話し込んでしまった。朝食の後は昼寝だ。よっぽど疲れていたのか鬼のように眠った。ランチにアングレームのダウンタウンに出た。が何も開いていない。奇跡的に開いていたナイジェリアレストランでソーセージを食べる。でまた昼寝。白い石造りの街は本当に静であった。夕食をいただいて話にもりあがっているともう深夜だ。外でいられるのは本当に気持ちよい。クーラーなどこの街にはない。

Monday, 7/15

予定の無い日。ショッピング。昼寝。明日からの演奏活動に備え、楽譜を整備。難を言えばピアノが無いのでぶっつけ本番になることだ。明日は12時にバンドでランチ。2時に新聞社の写真撮影と取材。でその後リハーサル。夕食はマキシムの友人宅におよばれらしい。

Tuesday, 7/16

昼にベーシスト、パスカルに会う。英語も上手くユーモアのセンス抜群でヒョウキンなナイスガイだ。すぐ近くの野外レストランでランチを取り、マキシムが教えるアングレームの音楽院でリハ。用意した6曲を片っ端から合わせる。かなり良い感じだ。まだまだ曲の解釈の差が出ているが、そういうものはこれからのツアーで演奏しているうちに合って行くだろう。私はよほどのことが無い限り、各々のミュージシャンの好きなように解釈してもらう。4時、地元の新聞、シャラント・リーブルから記者とカメラマンが来て取材を受ける。フランス語と英語でインタビュー。さてどんな記事になるのやら。

夕方から、近くの音楽家一家のパーティーに呼んでいただいた。庭にプールがありラベンダーが咲き誇る絵に描いたようなフランスの家庭である。この地方で造られる手製のワイン(ワインを造る途中で誰かが製法をあやまってできてしまったものがそのままドリンクになったそうだ。したがって厳密にはワインではないらしい。)ピノ・デゥ・シャラントが美味しいこと美味しいこと。アルコールには弱い私であるが、これならどんどん飲めてしまう。夏の野外パーティには最適なドリンクだ。作曲家のご主人とピアニストの奥さんは本当に優しいホストで、我々のために英語も混ぜてくれる。ソーセージ、フィレミ二オンと豪華な食事が夜遅くまで続き、最後は真夜中にプールに入る人もでた。完璧な南仏の夏の夜であった。(世界で南仏ブームが起きる訳だ。)

(続く)

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第8回 フランスの演奏旅行とレコーディング日記(その2)

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Wednesday, 7/17

四夜連続ツアー最初のギグ。昼過ぎに家を出てボルドーをかすめ三時間あまり走ってかなりの田舎にやってきた。今夜は古城でのコンサートである。その名もChâteau de Clermont-Dessous。いつかヨーロッパの城でコンサートをするという夢が早速かなってしまった。地元紙にも「Du jazz au château(城でジャズ)」と記事にしてもらっていた。まずホテルにチェックインし会場へ。すこし準備で遅れていたのだがここのミュージシャンは開演時刻がきても堂々とレストランでの食事を取り続けた。急いで会場に戻り15分遅れでスタート。主催者もオーディエンスも非常に好意的で初日にしては良いコンサートとなった。演奏後レセプションでは地元の人と交流。フランスの有名なマルシアック・ジャズフェスティバルに出ろと言われた。暗闇のドライブでホテルに戻り死んだように寝た。

Thursday, 7/18

ホテルで目覚めた。メンバーと家内でホテルの庭で朝食。ここでは食事は外でするもののようで毎日外で食べている。気候がよいからできることだ。うらやましい限りだ。夜の演奏時間まで時間があるので、ネラック(Nerac)という風光明媚な中世の街に行きそこで夕方までゆっくり観光することにした。 ネラックはまたしても登場するブルボン王朝初代のアンリ4世と彼の愛人フロレットで有名だそうだ。英語で言う「make love」をフランスでは「conter fleurette(コンテフロレット)」というそうだが、まさにこれが語源になっているそうだ。中世からある街は、街の中央にアンリ4世の城があり、川をまたいで瓦屋根が続く美しい街だ。茶色い水には船が行き来する。暑いので歩くのもほどほどに入ったカフェでお茶をしていたら、カフェの主人と友達になり、今夜のギグに来てくれるという。そして約束どおり本当に来てくれた。

演奏はメザン(Mezin)というかなり田舎の街の広場にあるジャズクラブで店のパティオでの演奏だった。ここもかなり好意的なお客さんが席を一杯にしてくれて、一曲一曲楽しんで聞いてくれていた。日本人のジャズピアニストはまだ珍しいようでかなり注目を集めたようだ。MCをするようにバンドメンバーから言われてフランス語と英語でがんばってみた。またしてもマルシアックに出ろと言われた。二時間ぶっとうしで演奏してヘトヘトになったが、かなり楽しむことができた。 終わったときに一人の男性が寄って来てレシートの紙切れに書いた詩(英訳と一緒にウェブサイトfr3.takeshiasai.comで公開)をくれた。自分の音楽をそこまで喜んでもらえる、そんなありがたい事はない。真夜中過ぎに楽器を方つけて、三時間かけてベースキャンプ、アングレームへ。

Thursday, 7/18

今夜はボルドー、フランスでもパリに続く大都会にあるジャズクラブである。クラブと言えどまたも野外の演奏だ。が、何がちがうのだろう、音響が非常に悪く苦労した。自分もバンドメンバーも疲れが出て来たのか、なかなか音楽に集中できなかった。最後の方でなんとかつじつまを合わせたが、全員かなり疲れた。終わってから地元の人と少し話したが、さすがにマルシアックに出ろとは言われなかった(笑)。店のウェイトレスの女性が非常にフランス人的な美人だったので話かけてみた。日本に通訳兼モデルでいったこともあるとのこと。

演奏は難しかったが、良い経験にはなった。貴重だ。感謝。

Friday, 7/19

四夜シリーズ最後を飾るのは、アングレームから車で30分のところにある田舎町ヴィロヌール(Vilhonneur)のコンサートホールだった。昨夜のギグが不発に終わったこととボルドーから真っ暗の道を運転して帰ったら午前三時だったので疲れて午後一時半まで熟睡してしまった。友人のカトリーヌがピックニックに行こうと家まで誘いに来てくれたらしいが夢の中であった。どういうわけか、九州の温泉を列車で旅行する夢を見ていた。 朝食を食べながらドラマーのマキシムと音楽の話をした。彼のおかげで昨日の重い雰囲気が消えて行き、今日のコンサートは素晴らしい演奏になることが予感できた。

夕方までゆっくり休養して出発。田舎道が本当にきれいだ。ところどころラベンダーが見事紫色に咲いて良いにおいを醸し出している。こんなの束ねたらNYでは売り物になるのに、ここでは誰も気にしない野生の植物のようである。畑の道沿いに自分のポスター見つけて感動していると会場に着いた。古い石造りの大きな農家の建物がコンサート会場になっている。白い石が陽に輝いて本当にきれいだ。ピアノは、古いボログランドだったが、弾き方によっては何とかなりそうだ。出演前に主催者の奥さんが自分のダイニングルームでお手製の夕食をごちそうしてくれる。質素な田舎料理だがそれが本当に美味い。カナールは最高だった。ご主人が作ったそうだ。

良い演奏になった。ジャズクラブの演奏も大好きだが、今回のフランスツアーに用意した楽曲は、今回のようなコンサートホール向きのような気がする。一曲一曲まるで最後のナンバーのような拍手をもらった。主催者から演奏曲を一つ一つ説明してほしいとのリクエストを受けるくらいだから、客も自分の楽曲を非常に楽しんでもらっているのが伝わってくる。アンコールにも応えた。ベーシストが「サントマ」をやろうと提案してくれた。名曲「セントトーマス」をここではそう呼ぶらしい。

そしていつものレセプション。フランスの田舎は意外と国際的で、オランダ人、ベルギー人、イギリス人がいた。ある画家が、「私はしばらく描いていなかったが、今夜のあなたの演奏を聴いてまた絵を描こうと思った」と不慣れな英語で話してくれた。最高の賛辞だった。

(続く)

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第9回 フランスの演奏旅行とレコーディング日記(その3)

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Sunday, 7/21

本日はオフ。だが日曜部は街全体がオフである。日曜日に立つ市場があるのででかけてみた。パンと野菜とマキシムの仏壇(かれは仏教徒なのだ)にそなえる花を買った。二人の家族のような友人、カトリーヌとフレドリックが夕食に招いてくれた。カトリーヌは以前も書いたが立派なコンサートピアニストで、クラシックピアニストには稀な即興演奏ができる。二人で東京、ニューヨーク、このアングレームで演奏をしたことは本当に良い経験だった。(プロジェクトの公式ウェブサイト、t3c.takeshiasai.com)家に帰ったら今まで涼しくて毎晩熟睡していたこの街に熱波が来ていた。かなり寝付かれず苦労した。

Monday, 7/22

レコーディング初日。アングレームから車で15分ほどの大きな民家にスタジオがある。キムというスーパーナイスなフランス人青年がエンジニアだ。英語もしっかりしゃべってくれて本当に助かる。ありがとう。なんと庭にヤギが二匹飼ってあり、近づくと声を上げて駈けてくる。ヤギがこんなにかわいい動物とは。普通動物の眼は縦長だが、ヤギは横長で、そのおかげか非常に優しく見える。

早速レコーディング。はやり昨夜の熱波で寝不足なのか三人ともかなり調子が悪い。午前中はかなり苦労した。昼に近くのレストランへ。やはり庭で食べる。ステーキとフレンチフライ(ここではそうは呼ばないが)で力をつけて後半戦へ。うーん、それでもしんどい。リズムがまとまらなくてひどい演奏だった。仕方ないので昼寝。すこし持ち直して予定していたオリジナル6曲をなんとか録り終えた。が、明日また挑戦したい。

一昨日のコンサートに来てくれた人からファンレターをもらった。シャラント・リーブルという地元紙にもインタビュー記事が掲載された。いかん、がんばらなければ。

今日は寝るぞ。

Tuesday, 7/23

レコーディング二日目。昨夜は非常に良く寝れたので気分が良い。早速スタジオに着いて昨日のレコーディングのチェックをした。思ったほど悪い演奏ではない。数曲に合格点を出し、足りないモノをもう一度レコーディングした。昼は昨日と同じレストランへ。前の日に予約したチキンを食べたが、ソースの美味いこと美味いこと。フランスはどこに行ってもソースが美味しい。NYでのレコーディングではランチは軽くすませてしまうが、さすがはフランスだ。 前菜からデザートまでたっぷりと時間をかけいただいた。レコーディングはなんとかなった。期待はずれと期待以上のものが入り交じって総じて言えば合格点だ。いいCDになるような気がして来た。一週間ともにプレーをしてきたベースプレーヤとキスをして(フランスでは男同士も二回キスをするのが礼儀だ。いやだったが、最後はそうした(笑))別れた。彼は12月に大阪でコンサートがあるそうだ。来年もフランスでこのバンドでツアーすることになりそうだ。

すべての音楽が終わった。さすがに頭が音楽で煮詰まってしまったので、この辺で休まなければ。明日からの二週間バカンスは「So I needed」だ。最後の夜は、マキシムの家でルームメイトと近所の友達とでピノ・デゥ・シャラント(また出た)で乾杯し遅くまでパーティーをした。素晴らしい音楽と素晴らしい友に感謝。これが人生のハイライトかもしれない(笑)。

Wednesday, 7/24

レコーディングから一夜明けた朝、マキシムにお礼とお別れの挨拶をして出発。ただ、レコーディングエンジニアのキムにエンジニア料を払いにもう一度スタジオへ。キムと談笑し彼のヤギに挨拶をして、 ピアノのレンタル料を支払いにジェラールへ。彼は一筆書きたくなるキャラクターだ。まずピエロのような髪型と左右丸と四角と違う眼鏡をしている。いつも本当に愉快で良い人だ。かつては大農家であっただろう大きな屋敷にピアノのディーラーシップと立派なコンサートホールを持っている。二年前私の最初のフランスデビューはここだった。今回のレコーディングをするにあたってスタインウェイのピアノをかなり安い値段で提供してくれた。もちろんCDに印刷するロゴも忘れずにくれるちゃっかりさもある。これだけのピアノショップを経営し、多くのアーティストのサポートをしていることだけのことはある。私はきちんとしたビジネスマンは好きだ。それに立派な英語を話してくれるので楽だ。コーヒーでもてなしてくれたうえ、偶然にも昨夜飲んだピノ・デゥ・シャラントを一瓶プレゼントしてくれた。しかも、来年CDリリースコンサートをホストしてくれることまでオファーしてくれた。これは来年も来ざるを得ないかも。ここの石造りのホールでトリオのコンサートをしたら良いだろう。素晴らしいサポートをしてくれる人は音楽家には必要だ。彼には本当に感謝している。

音楽上では後悔が無いとは言えないが、ツアーとレコーディングがなんとか無事終了したことに感謝しよう。ということで今日から音楽のことはすっかり忘れてバカンスに出る。また歴史探究にもどってブルボン王朝発祥の地を訪ね、ジャズフェスティバルで有名なスイスのモントルーに行き、最後は写真家になって一週間のコートダジュールの太陽を追いかけよう。楽しみだ。

(続く)

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第10回 ブルボン王朝発祥の地を訪ねて

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Wednesday, 7/24

さて、ツアーとレコーディングが無事終わったので、今日からバカンスだ。車を三時間東に走らせて、ブルボン・ラーシャンボー(Bourbon-l'Archambault)へ。この地名、フランス人でもほとんどの人が知らない。そういうものか。フランス革命で倒されたフランス最後の王朝がブルボンでその居城がベルサイユ宮殿だということは有名である。ではそのブルボン家はどこから来たのか。フランスの絶対王政を築き、フランスを世界で最も栄えた国にしたブルボン王朝の発祥の地、それがこの Bourbon-l'Archambault という羊が草を食べ緑の川がゆったり流れる田園の中のこの村なのである。ブルボン家は、10世紀ころからこの地方の封建領主として、この地を治め、この地方にたくさんの居城を残している。百年戦争の頃にカペー王朝との縁組みを機に勢力を増し、17世紀にアンリ4世がブルボン王朝をうち立てたのだ。

ブルボン(Bourbon)とは先住民族ゴール人が、湧き出る泉の神をBorboと読んでいたことに由来する。その名前は、後にこの地域を征服するローマ人やフランク人にも受け継がれて来た。温泉は今も湧き出て、日本でいわばさしずめ野沢温泉といったところか。ほとんどの客は温泉、フランス語で言うThermes(テルメ)に入りに来る老夫婦で、ブルボンの歴史探究で来ている私などはかなり不純な観光客だろう(笑)。

ここで絶対に見なければならないものは、Bourbon-l'Archambaultの今は廃墟となったかつてのフォートレスである。こいつはホテルのプールからも見える立派な石の城跡である。歩いて近づくとその大きさに圧倒される。中に入ると優しいお兄さんが英語で概略を説明してくれた。かつては15本の塔がそびえる城であったそうだが、フランス革命で壊され、今は三本しか残っていない。石は周りの家を立てるのに略奪されたそうだ。そういえば、近くに城のような家がたくさんある。返しなさいと言いたくなった(笑)。32段、34段、42段と上った塔の頂上からは、牧草地と緑の水を張った川がすぐ横を流れている。昔は川が重要な交通手段だったことがわかる。 700年間ほとんど変わらない風景であったと思う。あの栄華を極めたブルボンの故郷にしてはあまりにも静かだ。

もう一つブルボンの城を訪ねた。エリソン城(Chateau de Herisson)である。麦畑、羊や牛の放牧地をドライブすること三十分、突如岡の上に三本の巨大な塔が現れた。今では廃墟となった城だが、むかしはブルボンの重要な拠点であったようだ。残った石からかつての煙突や窓がよくわかる。私は華麗な宮殿よりも廃墟となった城に痛烈にロマンを感じる。ここもそうだ。しばし感慨に耽ってみた。小高い城からかなり下を川が流れているのが見える。そこには絵に描いたような静かな城下町があったが、レストランに入って休憩したい欲望を押さえて次の目的地へ。

モンルーソン(Montluçon) はブルボンの領土第二の都市だそうだ。丘の上にブルボンの城がそびえ、まわりに中世の街が美しく広がる。ここの目的は城以外にもある。中世の楽器、ハーディーガーディーを集めた博物館である。ツーリストインフォーメーションで聞いてみると、今は楽器の博物館が独立して新しくMuPopとして生まれ変わったという。さっそく行ってみた。中世の楽器から現代のシンセサイザーまで展示してある面白い博物館である。職業柄、現代の楽器にはいつも囲まれている私なので、ここはハンドルをまわすといかにも中世という音がするハーディーガーディーとそのレコーディングを堪能した。城は今一であった。さすがここまで城をみていると何が何世紀のオリジナルで、何が複製かがよくわかる。城はレプリカのようであったが、ブルボンの城の外観は堪能させてもらった。

夕食はピザの持ち帰り。暑い夜なのでホテルのプールサイドで夕涼み。

Thursday, 7/25

ブルボン・ラーシャンボー最終日。今日はブルボンの第一の城下町ムーラン(Moulin) に行く。30分ほどで到着。いきなり巨大な大聖堂がある。街のサイズから比べるとあまりにも大きい教会である。尖塔が空にそびえ立つその高さは圧巻である。その近くにかつてのブルボンの居城の残りの建物がいくつかある。早速美術館、Musee de Anne de Beaujeau に入る。ブルボン歴代の肖像画や家系図などを楽しんだ。私の学習したとおり、970年からブルボンの祖先は始まり、途中でカペー王朝と姻戚関係をむすび、17世紀にナバールの国王になり、アンリ4世がパリに入り、ブルボン王朝を開き、革命までフランスの絶対王政を成し遂げた。そしてフランスはヨーロッパで最も富んだ国となり、アメリカ、カナダ、アフリカ、アジアに植民地を造ったのだ。

日本人でここまでのブルボンオタクは珍しいと自分でも思う。街には日本人どころか、アジア人は他に誰もいない。しかも他の客はすべてフランス人で、ツアーに入ってもすべてフランス語である。英語のサインもチラシもほとんどない。街の人も、フランス語しか話さないのでこっちもがんばってフランス語を話すしかない。中世のブルボンの城のツアーに入るところ間違って18世紀のブルボンの城に入ってしまった。かなり近世で今の暮らしに近い城館をフランス語のみのツアーでたっぷりと見せてもらった。

ブルボン・ラーシャンボーに来た価値は大有りだった。今まで読んで知っていたブルボンの遺跡を実際に見ることができたというのは大きな収穫だった。ブルボンを語る資格を得たかもしれない(笑)。

(続く)

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第11回 フランスからスイスのモントルーへ

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ブルボンでの歴史探求を無地終えて、さて、ここから250キロ、4時間、フランスからスイスのモントルーに向かう。長距離ドライブは楽しみだ。最初はマッシブ・フランスの長閑な牧草地帯をひたすらドライブする。がそのうち山が多くなり、いつしか耳抜きが必要なほどの山を登り、トンネルがたくさん現れてくる。スイスが近づいてきたようだ。

さらに高度があがり、さらに山が険しくなるといよいよフランスとスイスの国境だ。EU加盟国同士(その時は、てっきりスイス連邦はEU加盟国だと思っていた。)はパスポートを見せなくても行き来ができると知っているのに何故か緊張する。が、見事に車を止めること無く、一列に旗のならぶ国境を超えた。スイス、ここではラテン名をとってConfoederatio HelveticaすなわちCHと表記する。同じフランス語圏の地域であるのに、フランスとは景色も人々の様子も全く違う。まず、急にドイツ車が多くなった。なるほどフランスでみんながフランス車に乗っていたのは国民感情的なことだったのか。レマン湖が壮大に迫って来た。琵琶湖にも感動した。ミシガン湖にも感動した。でも周りの高い山と、その山に迫るような緑の草原に囲まれたレマン湖は圧巻だった。このドライブは一生忘れないだろう。GPSがまるでICBMのようにホテルまでナビゲートしてくれた。二時間前までいたフランスとは全く違う町並みのモントルーに入った。どことなく007の映画に出てくるような、美しくも古めかしい街だった。さすが国際的なリゾートだけあって、ホテルのレセプションも非常にプロフェッショナルな女性がきれいな英語で案内してくれた。彼女の説明でユーロをスイスフランに替えた方が良いと聞いてびっくり。なんとスイスではユーロではなくスイスフランが使われているとのこと。びっくりして部屋のインターネットで調べてみたらスイスはEU加盟国ではなく、1992年の通貨統合にも参加しなかったそうだ。面倒臭いことになってしまった。

ホテルはレマン湖畔の四つ星ホテルを予約しておいた。広い部屋のどこの窓からもレマン湖が迫る。我々は普段は安ホテル専門であるが、ここでは理を曲げてレマン湖のほとりのホテルでちょっとした贅沢をすることにした。というか、ここの目的は、かの有名なレマン湖畔を味わうことであり、湖畔の高級ホテルに泊まる事自体に意味があるのだ。(と自分に言い聞かせた。)が、それは正解だった。かなり大きなホテルは、ベルエポックを彷彿させる作りでさすがに品がある。窓から見えるレマン湖はやはり壮大で、湖の大きさとその背後にある山に圧倒される。山脈はそのままアルプスにつながり、夏というのに峰に雪が残っているのがホテルの窓からでも見える。対岸にも灯が灯り始めた街が見える。奇麗だ。

運転で火照った体をしばらく休めた後、湖畔を歩いてみた。伝説のロックバンド、Queenのフレディマーキュリーの像がある。この地を第二の故郷とし、この地で死んだそうだ。着いてから知ったことだが、ここはスイス・リビエラと言うそうだ。イタリアン・リビエラ、フレンチ・リビエラを三つを制覇したことになった。湖畔にはちょっとした遊園地も出ておりさすがは観光地だ。もう陽も暮れようとしているのに、湖に飛び込む者がいる。そうか泳げるのか。河口湖で泳いだ記憶はまったくないが、ここは泳ぐようである。明日泳いでみよう。

ホテルの窓からカジノが見える。1971年、このカジノでコンサートを行ったフランク・ザッパが屋内で花火を使った。それが元で大火災になりカジノは全焼してしまった。周りには煙が立ちこめ大変な騒ぎになったそうだ。湖畔なので煙は湖面にも流れて行った。その時ホテルの窓からその「水の上の煙」を見ていたミュージシャンがいた。ディープパープルのボーカリスト、イアン・ギランである。その風景に触発されて書いた名曲が、Smoke on the Water なのである。私もギターを教えるときに使わせてもらっている。 ひょっとしたら彼、このホテルに泊まったのではないだろうか。

しかし物価が異常に高い。空腹に堪え兼ねてホテルの目の前の中華レストランに入った。アメリカの安飯ではなく、日本の中華飯店のようなものだった。店員も全員英語が堪能だ。この人たちって中国系スイス人っていうのだろうか。この街では下手なフランス語ではなくてどうどうと英語を使うのが良いようだ。客もほとんどが外国人だ。

明日が楽しみだ。さすがに運転の疲れが出たのか食べたら急に眠たくなったので目の前のホテルに退散。

(続く)

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第12回 モントルーの週末

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Saturday, 7/27

さすがに四つ星ホテルは良い。深い眠りだった。朝はマックに朝食を買いに行くことから始まったが、なんとキッチンは10時はじまりで、9時にはコーヒーしか買えない。24/7という言葉はここには無いようだ。が、運良くスーパーを見つけた。美味しいバケットと果物とコーヒをホテルに持ち込み安上がりで豪華な朝食。いつもは朝から城廻りに出かける我々であるが、時には休日も必要だ。今日は昼までホテルでゆっくりすることにした。レマン湖の湖面と頂上に雪をのせた高い山が本当にきれいだ。昼にホテルの目の前の湖で泳ぐことにした。今年最初の海水(淡水)浴である。水は少し冷たいが気持ちよい。ついでにホテルの庭のプールにも入る。

昼過ぎから、モントルーのハイライト、シオン城(Château de Chillon)に行く。もう城廻りは終わってと自分でも思っていたが、じつはここに一つ重要なのが残っていた。私がここの城を知ったのは高校二年の時だ。私のアイドルであるジャズピアニスト、ビル・エバンスの有名なアルバム「Bill Evans at the Montreux Jazz Festival」の表紙を飾ったのがこの城だからだ。湖の出島に造られたこの城は、周りを水に囲まれた強固な石の城である。フランスの白い石ではなく、茶色い石がフランスの城を見慣れた私には新鮮だった。中は迷路のように複雑でかなり時間をかけて回った。見つけた。城の中に数カ所かなり高いところから湖面に落ちる便所がある。ビル・エバンスがこの城を訪ねた際に、この便所を見つけて大笑いしたメモワールを読んだ事がある。便所を見ながら、偉大なピアニストの足跡を目の当たりにして少々感動した。私も続きたい(笑)。城の多分にもれず地下には牢獄がある。18世紀のイギリスの詩人バイロンもここを訪れた。壁に残した彼の落書きは今も見る事ができる。他にもこの城にインスパイアされた作家の一人に三銃士のアレクサンドル・デゥマ(Alexandre Dumas)もいる。セレブといえば、近くにハプスブルグの事実上最後の皇帝フランツ・ヨーゼフの妃、エリザベートの像も見つけた。彼女がウィーンの宮廷になじまず各国を旅してここにも来ていたそうだ。

城のあとはブベー(Vevey)へ。Little Women(若草物語)の映画で、主人公のメグがハンサム青年ローリーに、「フランス語しゃべるの?」と訊くと、彼が「家では英語だけど、ブベーの音楽学校ではフランス語。」と答えて彼女がうっとりしてしまうシーンがある。ここはそういう街らしい。でもとても静かだった。チャーリー・チャップリンは最後の25年をここで住んだ。大きなマーケット広場に車を駐めて歩いてみた。その名もCharley’s というカフェでパフェを食べる。夕暮れの空気が清々しい。まだ食べ足りないので果物屋に入りぶどうを買って、レマン湖のほとりで食べた。

Sunday, 7/28

トマトとオレンジとバナナの朝食をホテルで食べる。コーヒーが無いが悪くない。近くの山に登ることにした。といっても車であるが。30分ほど登ると山の中にソンショー(Sonchaux)という村があり、こんなところにきれいなレストランがあった。ここからレマン湖とモントルーが一望できる。絶景だ。ハンググライダーが体験できるそうで空にいくつか漂っていた。ハイカーもたくさんいてモントルーまで二時間半だそうである。

山をおりて、今日のハイライト、エーグル(Aigle)にいく。 ここには12世紀に造られた城があり今はワイン博物館としてこの地方のワインの歴史を今に伝えている。城好きの私とワイン通の家内にはもってこいの場所である。かなり空腹なので城に続く小さな街に一軒だけあるレストランに入る。親切なおばさんが一人で切り盛りしていた。チキンと魚は絶品だ。どういう訳かイギリス人客が店を占拠してしまった。ある筋によると裕福なイギリス人がフランスのワイナリーやシャトーや農家を買ってセカンドハウスにしているらしい。確かに、私もPeter Mayleの「プロバンスの12ヶ月」を読んだことがある。イギリス人がフランスに住むその物語で私もプロバンスが好きになった。スイスもそうなのかもしれない。(蛇足だが、フランス人の友達は彼らイギリス人が長年フランスに住みながらフランス語を全く話さない上に、フランス人をカエルと呼ぶと怒っていた。)城は本当に面白い。建築様式や内装はシオン城ととてもよく似ていて、フランスとは異なるスイス独自の趣がある。冬は雪が降り寒くなるのだろう、石造りの暖炉やストーブが各部屋にある。気温差が激しい土地が美味しいワインを産出するそうだ。瓦が赤い。なによりも、城の窓や狭間から四方にぶどう畑が広がっているのが見えるのに感動した。この景色は12世紀から変わっていないはずだ。そしてぶどう畑の向こうには高い山がそびえ、さらに段々畑となってぶどう園が広がる様子はスイスならではの絶景だ。面白いのは市電として走っている電車がそのまま登山鉄道となって急勾配な斜面を山に登っていくのだ。スイスらしい。

夕方はホテルで昼寝。ちょうど雷と夕立がきた。レマン湖に雷雲が立ちこめ雷がみえた。壮大だ。

モントルーは聞きしに勝るリゾートだ。通貨が違うこと、物価が高いこと、店の営業時間が不便という難をのぞけば、非常に国際的で、かつどこか庶民的でゆったりと過ごすことができる。スイスリビエラと言われる所以である。

さて、明日はモントルーを後にして、イタリアのトリノ、サンレモ経由で、懐かしのフランスのエズにいく。スイスリビエラから、イタリアンリビエラ、フレンチリビエラと一日に三か国のリビエラを走る。アルプス越え、北イタリア経由地中海まで524キロ6時間のドライブだ。

(続く)

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第13回 スイスのモントルーからアルプスを超えて北イタリア経由で南仏のコートダジュールへ

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Monday, 7/29

昨夜の豪快な雷と豪雨は去ったが、雨が残る朝となった。(レマン湖に光る雷は壮大であった。)今日のミッションは、車でモントルーからアルプスを超えて北イタリア経由で南仏のコートダジュールへ行き、ニース郊外のエズのホテルにチェックインすることである。

時間をセーブするために、起きたらすぐにホテルをチェックアウトし、車をモントルー郊外まで走らせてサービスエリアで朝食。モントルーから外れると物価が安い。美味しい朝食を頂いてアルプス越え。どんどんと標高が高くなり、子供の頃「アルプスの少女ハイジ」でみたような山とスイスの家がみえる。モントルーを出発して二時間ほど、山を登り続けるといきなり長いトンネルに入る。地図で勉強したとおり、トンネルの真ん中に国境があった。オフィサー以外誰もいない国境で検問を受ける。気温11度。雪山の近くだけあってかなり寒い。国籍と目的を告げて通過する。そこからはイタリアだ。今度はまるでジェットコースターのように長い坂を下りアルプスを超えた。家々はスイスとは全く違う造りで、町の様子もかなり違う。さっそくサービスエリアに入ると言葉はすべてイタリア語だ。この変わり様は見事である。さらに一時間、山を下り続けると平野に入る。そこに今日の第一中継地点であるトリノがある。ランチ休憩だ。私はトリノに馴染みはあまりないが、二つだけ知っている。一つはキリストの帷子(最近の放射線検査でどうやら偽物と判断されたらしい。私はあまり信じていないが、フランス革命後にこの地に赴任したフランス大使夫人の回想録(Memoirs of the Comtesse de Boigne)の中に、この帷子を聖遺物として厳かに見せる下りがある。)とイタリア最大の自動車メーカー、フィアット(Fabbrica Italiana Automobili Torino)である。昔はこの会社が買収したアウトビアンキ(Autobianchi)が欲しかった。早速街を車で散策。かつてのロンバルディ王国の首都だけあって歴史的なビルがならぶ大きな街である。私のお気に入りの映画「Summer in Genoa」に出てくる Genoa の街とよく似ている。近いから同じ文化圏なのか。さっそく手頃なレストランをみつけてランチ。片言のイタリア語でほうれん草とハムとズッキーニとハムの入ったライスを注文する。安いし上手い。ただし、言葉はすっかりイタリア語になっていて、フランス語どころか英語も通じない。覚えている片言のイタリア語でなんとかした。やはり言葉が通じないと不安になる。

さて、そこから第二のチェックポイント、サンレモを目指す。さらに二時間ひたするまっすぐな高速道路は走ると目の前に地中海が見えて来た。気温がどんどん上昇しいつの間にか25度。サボア経由で今度は、左手に地中海をみながらイタリアンリビエラをドライブする。太陽が強い。温度計は31度まであがり、強烈な日差しを受けて、トンネルと高い橋しかないカーブばかりの高速を走る。しかもみんな速い。水を飲むことさえ難しいドライブを二時間近くした後、高速を降りてサンレモの街に向かう。かつて見た映画「Talented Mr. Ripley」にその街が登場する。モントルーほどではないがジャズフェスティバルで有名な街だ。映画でもジャズを聴きにジュード・ロウとマット・デイモンがここにやってくる。海辺の街はバイクと人と車でごった返していた。信号機がほとんど機能しておらず、イタリアのいい加減さがそのまま出ていた(笑)。かなりの高級リゾートを思いきや、非常に庶民的な街で、入ったカフェも安っぽくてよい。スイス人ともフランス人とも全く違う浅黒く陽に焼けたイタリア人たちが楽しそうに海辺の街を楽しんでいた。家内によると私もいつのまにかここのイタリア人たちと同じ色になっているそうだ(笑)。

再び高速道路に入って、最後の目的地、フランスのエズを目指す。もう国境は近いはずだ。30分足らずでFranciaという標識が出て来た。ちなみに、ニース(Nice)がNizzaとイタリア語で表記されている。どういう経緯かは知らないが、ニースは昔イタリアだったそうだ。そしてどういう訳か料金所があるだけで国境は何もない。そのままフランスへ。あっけない入国だが、慣れ親しんだフランスに戻るとどこかほっとする。そもそも車はフランスナンバーだ。眼下の海沿いにモナコ公国を見ながらホテルを目指す。時間は午後6時半。モナコは事実上独立国であるから、この狭いエリアに三つも国がならんでいて、それぞれに違う言葉を話しているのである。それにしても荒々しい山の脇を眼下に青い海を見下ろすこのコートダジュールは何度見ても絶景である。午後7時、モントルーを出発してから9時間半、フランスのエズに着いた。温度差21度。標高差もかなりなものだろう。アルプスから地中海、残雪から真夏の太陽へ、三つの国の三つのリビエラ、全長520キロの行程を一日で駆け抜けた爽快なドライブであった。

(続く)

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第14回 南仏コートダジュール(その1)

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Tuesday, 7/30

コートダジュールの最初の朝を迎えた。昨日のドライブが効いて多少疲れているので、朝は洗濯などのユーティリティーに当てることにした。NYを出て27日目、最終地点だ。今回は何もせず、ただ一週間ビーチで寝るだけにしようと思っている。となると旅行記にはならないので、このコートダジュールについて個人的な紹介をしたい。

家内とスイス、イタリア、フランスのリビエラ比べをしてみた。どこも素晴らしいが、個人的にはやはりフレンチリビエラ、すなわちコートダジュールではないかと思っている。ここ実に4回目で夏と冬それぞれ二回来ている。まずはカンヌ(Cannes)。ここは毎年春に開催される映画際が有名でレッドカーペットを歩く映画スターと背景となる青い海の映像は馴染みのものだろう。私は冬に「フランス語ができる」というハッタリで、あるジャズバンドの代表としてここの音楽祭に「出張」で来たことがある。

そしてその隣の国際空港があるニース(Nice)。ここに海岸は見事で古くから多くのヨーロッパ人の避寒地であった。真冬でも野外で食事ができるし、天気がよければビーチでひなたぼっこができる。私たち夫婦は2009年の正月カウントダウンをこのビーチで迎えた。街にはシャガール美術館、マチス美術館と芸術には事欠かない。

近くにはアンチーブ(Antibe)という、ピカソが新しい愛人と住んで晩年を過ごした街がある。モナコ公国当主グリマルディの先祖の小さな城が海岸に建つ風光明媚な静かな漁村だ。

そしてモナコ公国。これには説明は不要だろう。ちょっと前にはハリウッドからレーニエ大公に嫁いだグレース王妃、最近では南アフリカの元オリンピック水泳選手が嫁いだことで有名である。現在の国家元首はアルベール二世。丘の上に、グリマルディの宮殿があり、規模はバッキンガム宮殿ほどではないが豪華絢爛さでは決してひけを取らず、さすが世界でもっとも裕福なロイヤルファミリーであることが一目で分かる。代々この家族、ルックスの良さで知られていて、グレースケリーの孫たちも、やれモデルだなんだでセレブ中のセレブである。このグリマルディ家の紋章は二人の僧侶が剣を持っている姿が描かれているが、これは中世に敵陣を僧侶の仮装で入り込んでだまし討ちをしたことから来ているそうだ。基本的にどこの王朝も今でこそセレブやなんやらで人気者であるが、先祖は裏切りやらだまし討ちやらとにかく武力で勝ち残った武勇者たちである。

モナコといえば、現在ではもちろん、夜な夜な超高級車(BMW 3シリーズではなくて、ベントレーやらフェラーリやらである)が集まり、それを追うカメラマンたちが集うモンテカルロは超セレブの街として有名である。が意外と私どものような庶民が行ってカフェに入ってお茶を飲んだりできる。冗談でスーパーカーが次々と通り過ぎるホテル前をプジョーのレンタカーでカメラマンたちの前を走ってみた(笑)。

サン・ポール・デゥ・バンス(Saint-Paul-de-Vence)は、山の中に残った中世の城壁都市で、いまは外観はそのままに見事に芸術性の高い村に生まれ変わっている。ここはイブモンタンなどフランスの有名人のお気に入りの場所だそうだ。白い石畳、中世そのままに残る建物、道の石畳に落ちたバラの花びら、何もかもが絵になる写真家をクレージーにさせる街であった。

マントン(Menton)は、イタリア国境に接した最後のフランスの街で、イタリアのサンレモと非常によく似ている。音楽祭が有名で海が一望できる教会前の広場では毎晩のようにコンサートが催されている。私のお気に入り、ジャン・コクトーの充実した新旧の美術館があり彼の作品をたっぷりと堪能できる。もちろん海辺の街は本当にきれいで冬でもさんさんと太陽が注いでいる。コートダジュールの売りは一年中降り注ぐ太陽なのだ。

サントロペ(St. Tropez)、ここも海辺のロマンチックなかつての漁村で今では観光名所になっている。フランスの大女優、ブリジッド・バルドーが愛して住んでいることで有名だ。もちろん、モナコのセレブの御用達のビーチとレストランも素晴らしい。私たちが訪れたのは冬であったが教会で結婚式が行われていた。美男美女ばかりであった。なんでだ。

さて、2013夏、なんと4回目のコートダジュールである。4年前に、小高い山の上に廃墟となった古城を見つけた。丘を登るとため息がでるほどの地中海と赤い瓦屋根が見える。その麓に古い小さな村があった。それが、エズ(Èze)である。昨年からその村にキッチン付きのホテルを借りて10日ほどのバケーションを取ることを夏の恒例行事としている。今年もこうしてやってきて、近くの店で食材を買い自炊生活をする。この辺りとプロバンスは香水の産地でもある。ホテルのすぐ下に工場があって買わずとも自由に見学できる。先を長く伸ばした真鍮の樽が並んでいて非常に面白い。

(続く)

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第15回 南仏コートダジュール(その2)

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「コートダジュールオタク」の我々が愛するのは、キャップ・フェラ(Cap Ferrat)である。ニースの横で海に突き出た小さなこの半島は、古くにはベルギーの国王レオポルド2世が別荘を建てたことからセレブたちのリゾートとなり、ロスチャイルドの豪華な(私の趣味ではないが)別荘と庭園、ギリシャ風のビラ(これは良い)、最近ではミュージカルの作曲家アンドリュー・ロイド・ウェーバーが別荘を構えている。といっても、ここも我々庶民が出かけていってもおかしくはない、これもまたため息が出そうなひっそりとしたビーチがある。レストランではここの名物ブイヤベースがある。非常に美味だ。昨年お気に入りにベーカリーを見つけた。バゲットが本当に美味しい。そのカラッとした皮としっとりとした中身、大きな気泡と小さな気泡の混じり方、これはここに来なければ味わうことのできない贅沢だと思う。

エズは今年で三回目であるが、今日は一つ新しいことに挑戦した。以前から気になっていたのだが、エズの山から海の方へある小説家が好んで歩いた小道が延びていて、45分でビーチに行けるという。この際、エコブームに乗っ取って車を使わずにビーチまで出ることにした。いやまいった。コートダジュールといえば海であるが、実は切り立った高い岩山に接していて、谷は木が生い茂るが表は乾いた岩で、景色は良いのだが大変な山下りとなってしまった。やっとビーチに着いた時にはヘトヘトであった。で、急いで飛び込んだらなんとクラゲの襲撃に遭って、激痛をこらえて舞い戻るはめになった。「泣きっ面にクラゲ」とはこのことである。よく見ると海水浴客が数人タモをもってクラゲ捕りをしているではないか。しかもビーチは砂ではなく岩、パラソル付きの休憩所は一人21ユーロ取る。一時間近くの山下りという激務の後にクラゲにさされるとは全く割の合わない朝となった。気を取り直してバスに乗りホテルへ戻る。一時間に一本もないような田舎バスだが、1ユーロ50セントでたったの15分で山上にあるホテルに連れて行ってもらった。感謝。ホテルで家内が美味しいパスタを作ってくれた。ソーセージが美味しい。が、やはりクラゲにさされた跡が痛む。ホテルの前に薬局を見つけたので早速入って、下手なフランス語で今朝クラゲにさされたことを話したら、すぐにクラゲの絵が描いてある塗り薬が出て来た。フランス語ではクラゲのことをメデゥース(méduse)というそうだ。薬の名前が médusineであった(笑)。飲み薬は飲まなくて二日間このクリームを塗れば大丈夫だとのこと。安心した。

海には懲りて昼にはホテルのプールに行った。ここにはクラゲが出ない。が、やはり飽き足りずに、夕方から我々のお気に入りの街とお気に入りのビーチに行くことにした。Cap Ferrat の隣にあるビーユ・フランシュ(Villefranche)というかつての漁村である。ここのビーチは最高だ。水の色も温度も非常に心地よく、適度ににぎわっていて、しかも船でクラゲを捕ってくれていて安心して泳ぐことができる。長いこと海につかってぼうっとしてみた。回りはフランス人が大半だが、イタリア語もドイツ語も聞こえてくる。水からあがって街を歩いてみた。ビーチの横に古い石でできた街がありレストランが並んでいる。15世紀に作られた最初の泉が今も水が出ていて喉と手に冷たい水を供給してくれた。大変な朝であったが、夕方には報われて至極の気分にもどった。この街のレストランで去年の夏ブイヤベースを食べた。その夜は良いレストランで周りの客とも友達になった。

ある日の夕刻、火照った体でビーチから帰ろうとしてふと建物の脇を見るとフランス語で石碑が掲げてある。がんばって読んでみると、「ここで1538年6月8日、フランス国王フランソワ一世とハプスブルグのスペイン皇帝カルロス5世が、ローマ法王パウロ3世立ち会いのもと「ニース協定」を批准した。」と書いてあった。それは本で読んでいた。この地域、今でこそ国境が定められているがスペイン、イタリア、フランスの三国が取り合って壮絶な戦いがあったのだ。フランスのフランソワ一世、スペインのカルロス5世、そしてイングランドのヘンリー8世(私はチューダー王朝のファンでもある)、ともにルネッサンス時代の嚆矢となる歴史を代表する王の三つ巴のライバル関係は本当に面白い。

さて、エズ村(Eze Village)について書かねばならない。この小さな村は高い山の頂上に廃墟となった城があり、その周りに石造りの中世の小さな建物が並ぶまるでおとぎの国のような村だ。その石の家は今ではレストランだったりカフェだったりで、階段やトンネルになっているその細い道を散策するもよし、食事やお茶をするもよしで非常に良い気分にさせてくれる。時より建物の隙間から海が見下ろせるがそれはため息がでるほど美しいと思う。がんばって頂上まで登ってみるとそこからは下に広がる赤い煉瓦屋根と青い海で、このコートダジュールで一番美しい風景なのではないかと思う。夏の夕方に久しぶりに登ってみた。見事だった。この風景もまた中世から受け継がれてきたものであろう。

(続く)

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第16回 桃源郷

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Saturday, August 3

一ヶ月に及んだフランス滞在の最終日、私はこの日のことを一生忘れない。

今回のコート・ダジュールはバカンスに徹して毎日ビーチに行くだけの生活をしようと決めていたのだが、最後の一日は、ガイドブックでたまたま見つけた城壁で囲まれたペイオン(Peillon)という街に出かけることにした。一時間弱車を走らせると木々の間から山頂にぎっしりと立ち並んだ石の家家が見えて来た。ペイオンだ。ここは階段しかない村で車は入れない。村の入り口に駐車して噴水のある入り口から中に入った。どうやらこの日は何かのお祭りのようで、石造りの村の至る所に三色旗が掲げられ、バンドネオンのいかにもフランスという音楽が流れていた。村のピザ職人が朝からピザの生地を練っている。山の頂上にほんの小さな広場があり、きれいな教会と学校があった。音楽が近づいて来た。5人くらいの伝統衣装を来た男女が、どうやら一軒一軒回って音楽を披露しているようだ。私たちを見かけるとこちらにも来てくれた。写真を撮ってあげたらポーズしてくれた。名刺を差し出すと、私がNYから来たピアニストだというのでずいぶんと興味を持ってくれたが、その中の女性が、その晩に年一度の村のお祭りがあるから是非来てくれと誘ってくれた。Fête de La Saint Sauveurというらしい。その夜は、ビーユ・フランシュでブイヤベースを食べるつもりだったので一度は断ったが、リーダーの女性が帰り際に再度立ち寄ってきてくれて、夜の祭りでゲストでピアノを弾いてくれとお願いされた。聞くところによると、先ほど見た広場で野外の釜で焼いたピザとワインが振る舞われダンスで盛り上がるのだそうだ。更に別の女性が出て来た。イギリス人の歌手で今夜教会で歌うそうだ。そこまで口説かれたら断る理由はない。喜んでペイオンの村祭りのゲストで招待されることにして一旦プールに入りにホテルに戻る。

夕方再び同じ道を通ってペイオンに。村に着くと噴水のある入り口に正装した人たちと黒服の司祭が語らっていた。司祭が私たちに寄って来て、立派な英語で挨拶をしてくれ、今日の演奏を楽しみにしてくれていると言う。いつの間にか村中の人が私のことを知っているではないか。6時、皆が揃ったところで戦没者に旗を掲げてみんなでマルセイエーズを歌った。なんとフレンチなこと(笑)。この曲、革命中マルセイユの人々がチュイルリーを襲撃する前夜に素人が作った歌だ。従ってプロの音楽家からみると非常に素人っぽい。が私は大好きだ。旗手と村人が一緒に階段を登って広場に向かう。朝会ったバンドの人たちと再会の挨拶をする。そのまま教会に入り、立派なカトリックのミサに参列。朝出会ったイギリス人女性が素晴らしい歌声を披露した。ミサはすべてフランス語であった。当たり前だ。

終わって広場に出る。なんと、私たち夫婦はマイクでアナウンスされてVIPとして市長や村の役人が並ぶ白い特別席に座らされた。何が起こったのだ。市長、政治家の挨拶の後乾杯があり、私が呼ばれた。午後7時、さんさんと注ぐオレンジ色の美しい夕暮れの光の中で、みんなが私のピアノを喜んでくれた。

食卓にはピザと地元のワイン、地元の食べ物が並ぶ。地元のミュージシャンが笛と太鼓と歌で古くから伝わる地元の音楽を奏でる。その平均律ではないアルカイックな音楽に私は魅了された。さすが地元、一緒に歌う老人がいる。

VIP席の隣には、地元で英語の先生をしているというイギリス英語をしゃべるフランス人女性が座ってくれた。それは大助かりだ。女の子が私たちの胸にペイオン名誉市民のリボンとバッジをつけてくれた。感動した!

再度呼ばれてピアノを弾いた。ガーシュインのリクエストに応えたら、そのイギリス人女性(どうりで巧いと思ったらプロのオペラ歌手であった)が歌でジョインしてくれ、そのままサマータイムをデゥエットした。音楽がバンドネオンの入った不思議なダンス音楽になり、しだいに現代のクラブ風になり、最後はただのディスコになってしまった(やはりここに来るか)が、村のお年寄りから子供までが一緒に踊る風景は素晴らしかった。この村の人口は69人で、私と家内を70、71人目とよんでくれた。面白いもので、普段はパリ在住の人が夏は避暑地として住んでいたり、NYUやカリフォルニアの研究所に行き来するようなインテリも多く、結構みんな英語を話す。朝に出会って私が一生懸命フランス語で話したピザ職人、NYにはたびたび行っているそうで立派な英語を話すではないか(笑)。ひっきりなしに人が挨拶に来てくれてたくさんの人と友達になった。中世から伝わる古い村と言えども、みんなEメールアドレスを持っているのは不思議だ(笑)。家内がお礼に書を披露し、それも大いに気に入ってくれた。

夜更けには、なんと来年私のコンサートをこの村で開催しようという案も出て、私は村の偉い人と約束の固い握手を交わした。まだまだダンスは続くが私たちは明日の出発があるので、村人たちに別れを告げて宴を後にした。最後にもう一度振り返ると、中世から続く山頂の村にはCan't Take My Eyes Off Youが高らかになり響いていた。まるで桃源郷に迷い込んだような不思議なフランス最後の夜であった。

(おわり)

ペイオン・フォトアルバム

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